黒部ダムの建設秘話を紹介します。
現在ではあまり考えられないような、過酷で危険な工事でした。
171名の尊い命が失われましたが、戦後の日本の復興に欠かせない大工事です。
目次
黒部ダムの建設秘話【建設会社や建設費も紹介】
黒部ダムは「黒部川第四発電所」のことです。
略称で「くろよんダム」とも呼ばれます。
富山県の黒部渓谷に建設された、関西電力のダムです。
渓谷の形や水量が水力発電に適していたため、建設されました。
1956年に着工され、完成は1963年、7年の工期。
主な建設会社は下記のとおりです。
- 鹿島建設
- 大成建設
- 熊谷組
- 間組
- 佐藤工業
のべ1000万人の作業員が動員されました。
- 建設費は約513億円
- 貯水量2億トン
- 堤長492m
- 高さ186m
の巨大ダムです。
現在、年間の発電量9億KWh、約29万世帯の年間の使用電力を発電しています。
それでは、黒部ダム建設について、さらに詳しく見ていきましょう。
黒部ダム建設の死者数
黒部ダム建設の死者数は171名にものぼりました。
うち87名は雪崩の被害で命を落としたそうです。
そもそも人が行くのも困難な場所なので、命がけの工事でした。
冬季はマイナス20℃にもなり、作業は極寒の中でも行われました。
冬は食料の運搬が難しく、作業員の食料がなくなることもあったそうです。
また、後述する「大町トンネルでの破砕帯事故」でも、作業員が命を落としています。
黒部ダム建設は、尊い命を犠牲にしながら厳しい工事となりました。
黒部ダムの歴史【建設された理由】
黒部ダムの構想は、大正時代から始まりました。
当時の日本は電力が不足しており、豊富な水量を年間通して確保できるダムが必要でした。
※当時の主流の発電方式は、水力発電です。
黒部の雪止め水を大量に保有し、年間通して豊富な水量をもつ黒部は、ダム建設に最適な場所だったわけです。
調査自体は、大正7年から開始。
工事は、富山県の宇奈月から猫又ルートの開削から始まり、
- 1927年:柳河原発電所
- 1935年:黒部川第二発電所
- 1940年:黒部川第三発電所
の3つのダムが建設されました。
その後、戦争が激化したため、黒部渓谷を利用した第四発電所計画(現在の黒部ダム)は中止されていました。
戦後、関西の電力不足が深刻に【黒部ダム建設工事が必須になる】
戦後、関西の電力不足が深刻化しました。
当時の関西地区では、工場や一般家庭で計画停電が当たり前。
それが、電力確保ができない=戦後の復興が遅れるという悪循環になっていました。
そのため、計画が中止されていた黒部川第四発電所、通称「くろよんダム」の建設が再考されます。
黒部ダムを建設することで、関西への安定した電力供給が急務でした。
1956年に黒部ダム建設が開始
1956年から工事が開始されましたが、最初の難関は資材の運搬でした。
そもそも、人が行くのも困難な渓谷に資材を運搬するのは、至難の技。
工事開始の当初は、
- 徒歩
- 馬
- ヘリコプター
で資材を運搬していました。
富山県の千寿ヶ原まで鉄道で資材を運搬して、人や馬で2700mの山を超えて運搬しました。
片道はなんと25km。
冬場は、資材を黒部渓谷まで滑り下ろす運搬方法もとられていました。
ただ、これではあまりに不効率だったため、長野県の大町側から資材運搬用のトンネルを掘ることになったのです。
難関を極めた大町トンネルの掘削工事
資材運搬を効率化するために、1956年の8月から大町トンネル(現在の関電トンネル)の工事が開始。
建設会社は熊谷組でした。
作業員のベースキャンプは、トンネル内に建設されました。
掘削には全断面掘削機ジャンボを導入して、24時間の工事を進めました。
当時は、トンネル掘削はそこまで難しくないと考えられていました。
1957年に破砕帯にぶつかる【死者が出る難関工事】
しかし1957年5月1日、大町トンネルの工事で、入り口から1691mの地点で破砕帯にぶつかりました。
「破砕帯」とは、岩盤の中で岩が細かく割れて、地下水を溜め込んでいる弱い地層です。
岩盤が崩れ、大量の土砂と地下水ががトンネル内に放出しました。
地下水は最大で毎秒660リットルにまで及び、トンネル内が川のようになったといいます。
土砂と水で命を落とした作業員もいました。
この破砕帯の事故で工事は完全に停止しました。
迂回路を模索するために、何本も他のトンネルを掘ってもなかなか破砕帯を突破できなかったそうです。
水抜き坑を掘り、ボーリングを行って地下水を抜き、セメントと薬液で地盤を固めて、土砂と地下水の噴出を防ぐ工事を地道に進めていきました。
当時の工事は、水温4℃の水に濡れながらの作業だったそうです。
まさに気力で工事をするような、過酷な状況です。
そして1957年12月2日ついに破砕帯を突破しました。
わずか80mを掘り進めるのに、のべ7ヶ月を要した大工事になりました。
この大町トンネルの破砕帯の工事は、黒部ダム建設で最難関の工事と言われています。
1958年2月に、ついにトンネルは開通。
予期せぬ破砕帯があったことで、この時点で工期は10ヶ月遅れていました。
大町トンネル工事は渓谷側からも進められた
長野県の大町からトンネル掘削を迎えうつ形で、渓谷側からも掘削が開始されました。
トンネル掘削用の重機運搬は、ブルドーザーに掘削機を乗せて運ぶという、前代未聞の運搬方法がとられました。
大町トンネルの破砕帯の事故で大幅に工期が遅れていたこともあり、渓谷側からの掘削と合わせて、今まで通り徒歩や馬による資材運搬も進められました。
大町トンネル開通後、急ピッチで工事が進む
大町トンネル開通後は、一気に工事スピードが加速。
大量の火薬を使って、山をスピーディーに形成していきました。
1959年9月から、コンクリート打設工事が開始。
使用されたコンクリートの量は、当時の世界記録になりました。
工期の遅れを取り戻すために、真冬でも工事を止めずに進めたため、雪崩による死者も出ています。
アーチダムの黒部ダムにウイングダムを追加
黒部ダム建設中の1959年の12月に、フランスのアーチダム崩壊のニュースが飛び込んできました。
当時の黒部ダムもアーチダムで設計されていましたが、工事途中でアーチダムの耐久性が問題視されることに。
そこで、黒部ダムはアーチダムの両端にウイングダムを設置する設計に変更されました。
結果的に、より強固なダムを造ることができました。
1963年、黒部ダム完成
1963年、ついに黒部ダムが完成しました。
当時の日本は高度経済成長期。
日本が成長していくのと重なり、黒部ダム建設は世間の注目を集めました。
黒部ダムが完成したことで、関西圏への電力供給は安定しました。
結果、関西圏の経済発展に大きく貢献しています。
ちなみに黒部ダムは、1968年に「黒部の太陽」で映画化されています。
主演は当時の大スター、三船敏郎と石原裕次郎でした。
黒部ダム建設と合わせて高度経済成長期を盛り上げた建造物
1963年の黒部ダム完成は、前述のとおり高度経済成長期の象徴となりました。
黒部ダム建設の5年前の1958年には東京タワーが完成。
同じく、高度経済成長期の象徴的な建造物となりました。
まさしく、映画「ALWAYS~三丁目の夕日」の時代。
戦後の復興で、日本がどんどん豊かになっていくために、欠かせない建造物と言えるでしょう。
ちなみに、東京タワー建設については、
東京タワー建設の徹底解説【鳶職人たちの死のキャッチボール】にまとめています。
まとめ【黒部ダム建設は日本の戦後復興に欠かせない工事だった】
この記事をまとめます。
- 黒部ダム建設では、171名の尊い命が失われた
- 戦後、関西で電力不足が深刻化したため、黒部ダムが必要不可欠だった
- 大町トンネルの破砕帯の事故は、黒部ダム建設の最難関工事となった
- 大町トンネル開通後、黒部ダム建設は一気に加速した
- 日本の高度経済成長期と重なり、黒部ダム建設は世間の注目を集めた
黒部ダム建設の参考になればうれしいです(^^)